前回の続きで東京で組んだバンドの話を書いていた分を投下。何がそこまで自分を突き動かすのかわからないけどワイ蔵さんやTurning Centerのちんねんさんまで読んでくださったらしくウヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ(裏声)となりながら書く。そして他の人のこういう話を読みたい。自分は人の気持ちがよくわからないから少しでもそれに触れて安心したいのでしょう。しらねえけどよ!言わせんな!ペッ!ピチャッ!(ツバを吐きそのツバが地面に落ちる音)ところで寝てるときにツバを吐くことってありますか?僕はあります。
上京が決まりアパートを治安の悪さが抜群の蒲田に決めたところで実家にいるうちにメンボサイトでメンバーを探した。キウイロール、envy、Spiral Chord、Killieが好きです等と書いた気がする。同世代のメンバーが割とすぐに集まって上京して一ヶ月も経たないうちに渋谷のスタジオに入った気がする。練習後にウェンディーズだかのバーガー屋でチリポテトセットを食べながらメンバーとiPodの中身を見せ合ってキャッキャウフフした記憶があるから多分そうだと思う。しかし順調だったのはここまでだった。ベースが転勤になったと言って抜けてドラムはポストロックになってからのenvyが好きだったらしく方向性が違ったと言ってさっさと抜けた。唯一残ったギターの友達のベースが入ったけど二人とも演奏がうまくて完全にイニシアチブを握られて自分が作ったデモもハマらず曲作りも進まないエモーチブな状況に陥り結局3cmtourのコピーをやることになった。確か涼子は恨んだだったけどもう1ミリも弾けない。そして当時はもっと分かりやすい激な音をやりたかったのでそこまで気が進まずにアパートでギターを練習していたら大学生らしき隣人に壁ドンされた。それなりに防音の効いた部屋と説明されたのに音が最も小さいであろう生音のアルペジオ聞こえるとかあり得なくなーい?ムリなんだけどーと思った。そして岩手ではお目にかかったことがなかったゴキブリが絶妙に不気味なタイミングで動き回ってそれの対処に必死だった。フローリングや畳の部屋ならまだしもなぜかフロアカーペットが敷かれた4.5帖の部屋だったこともあり室内を高速で動かれると異物感が尋常じゃなくて本当に気持ちの悪い存在だった。
それでもどうにか練習してスタジオに臨んだ。自分のギターが下手で微妙な雰囲気になりながら合わせていたら途中でマイクスタンドの操作をミスって指を挟んで大量出血した。それで慌てふためいていたけどメンバーは無反応でコイツ駄目だなという雰囲気をビンビンにキャッチしたら悲しくなってその日でそのバンドを辞めた。自分の至らなさや惨めさで気持ちがいっぱいになり23にもなってマジ泣きしながら町田のスタジオを去りアパートに帰った。蒸し暑い日だった。
それでも一、二ヶ月も経てばまたバンドをやりたくなった。音楽の方向性の違いがそもそもの原因だったのだ、次のバンドでは本当に自分がやりたい方向性のバンドをやるのだとDrive Like Jehu、Fugazi、400Years等を記事に書き連ね再度メンバー募集をかけた(ちなみにこの頃にDaiei-Sprayらしきバンドのメンボがあったけど気のせいだろうか、確かベースを募集してて好きなバンドにFuel、Samiam、HDQ、God's Gutsとかが挙がってた気がする、応募してみたかったけど相当なガチ感だったしそもそもベースも持ってないし無理だった)
それでまたすぐにメンバーは集まって秋頃に新宿のペンタスタジオで練習をした気がする。このときは埼玉から通勤して昼休みにはユニオン新宿パンクマーケットを漁るというツワモノなメンバーがいてDrive Like JehuやSwing Kids、Hoover等の話ができて楽しかった。Ethel Meserveやkukim、shotmakerを教えてくれたのもこの人だった。でもここでも自分のギターが圧倒的に下手なために足を引っ張りまくりそのメンバーが作ったフレーズを弾いていたら「ギターなのに自分でフレーズを考えられないならバンドを組んだ意味がないですね」とチクッと言われ結局うまくいかなかった。自分で全パートを作った曲を再現するだけなら誰がメンバーでもいい訳だけどそれでは面白みに欠けるしバンドの醍醐味のケミストリー(ハァンパァーな夢のひとカケラがぁと後に歌う二人を見出したのがアサヤンでそこで光る君のカケラがぁーと歌ったのがアジカン、ところで全然面白くないんだけど何)を味わえないから各パートに任せるという考えならそうも言われるよなと今は思うけど当時は本当に辛辣に感じたし挫折した。スリーピースで自分の曲を作ることしか考えてこなかった自分には完全に技量不足でどこをどう弾けばいいのか全く分からなかったしかといってギターの練習を頑張る訳でもなく日々の生活に追われるだけのカス野郎だった。その後の自分がギター一本のバンドに拘っていたのはこれが原因である。
その後はさすがにバンドをやる気にはなれなかった。仕事もリーマンショックの煽りを受けていつまでも現場に出られずに社内での研修が続いた。常にブラインドを閉め切った暗い部屋に軟禁され研修としてC言語でオセロゲームのコードを組まされる日々に絶望していた。それができたらなんなのと思っていた。仕事をしたかった。研修制度は確かにしっかりしていたもののそれが自分には仇となって次々にプログラミング言語を叩き込まれ往復二時間強の通勤電車に揺られながらSE・PGの登竜門資格である基本情報技術者のテキストを読み続けた。優秀な同期は現場で経験を積んでいく中で自分は一体なにをしているのか、こんな生活の何が楽しいのかと限界を感じていた。そして季節外れのインフルエンザにかかりダウンしてしまったところでダメだこりゃと会社を辞める決意をした。ヤケクソになってインフルが治っても会社をサボって朝からジンロのドクターペッパー割を飲んで青春系の邦画をひたすら見たり一人カラオケでビートルズを歌ったり泊まりがけの治験を受けたりしていた。会社の人に迷惑をかけ続けるし人生で最も落ちた頃だった。定年退職した父親が心配して様子を見に泊まりに来たこともあった。とても不甲斐なかった。その年の冬には荷物をまとめて盛岡に帰った。それで短すぎる東京生活が終わった。
当時のことをあの時こうしていればもっとうまくいったのではと考えることが何度もあってこれを後悔や心残りというのだと思う。今思うとそもそもアパートを検討する時点でリーマンショックの影響から新人が入れるような現場が減って研修が長期化することを想定して通勤の負担を減らせるように研修所の近場にアパートを借りていればまだよかったのかもしれない。一人暮らしもしたことがないのだから夢の都会に浮かれていないで地に足を着けてからバンドを始めればよかった。少し考えれば分かりそうなものなのに。It seems so easy…とthe tigersがデモのタイトルに付けていたように簡単そうに見えていたしこの言葉をずっと反芻していた。でもそれも今だから思うことでチート状態で過去に戻ってやり直したくもなるような思い出ということで。これが本当のハンパな夢のひとカケラってやつよね(ケミストリーで締めるスタイル)
ということがあった。また長くなったし半分バンド関係ないしブログ書きたくてバンドやってる感すら漂うので終わる。ギターを弾きたかったけど寝る時間なので寝る。好きにするがいい。
上京が決まりアパートを治安の悪さが抜群の蒲田に決めたところで実家にいるうちにメンボサイトでメンバーを探した。キウイロール、envy、Spiral Chord、Killieが好きです等と書いた気がする。同世代のメンバーが割とすぐに集まって上京して一ヶ月も経たないうちに渋谷のスタジオに入った気がする。練習後にウェンディーズだかのバーガー屋でチリポテトセットを食べながらメンバーとiPodの中身を見せ合ってキャッキャウフフした記憶があるから多分そうだと思う。しかし順調だったのはここまでだった。ベースが転勤になったと言って抜けてドラムはポストロックになってからのenvyが好きだったらしく方向性が違ったと言ってさっさと抜けた。唯一残ったギターの友達のベースが入ったけど二人とも演奏がうまくて完全にイニシアチブを握られて自分が作ったデモもハマらず曲作りも進まないエモーチブな状況に陥り結局3cmtourのコピーをやることになった。確か涼子は恨んだだったけどもう1ミリも弾けない。そして当時はもっと分かりやすい激な音をやりたかったのでそこまで気が進まずにアパートでギターを練習していたら大学生らしき隣人に壁ドンされた。それなりに防音の効いた部屋と説明されたのに音が最も小さいであろう生音のアルペジオ聞こえるとかあり得なくなーい?ムリなんだけどーと思った。そして岩手ではお目にかかったことがなかったゴキブリが絶妙に不気味なタイミングで動き回ってそれの対処に必死だった。フローリングや畳の部屋ならまだしもなぜかフロアカーペットが敷かれた4.5帖の部屋だったこともあり室内を高速で動かれると異物感が尋常じゃなくて本当に気持ちの悪い存在だった。
それでもどうにか練習してスタジオに臨んだ。自分のギターが下手で微妙な雰囲気になりながら合わせていたら途中でマイクスタンドの操作をミスって指を挟んで大量出血した。それで慌てふためいていたけどメンバーは無反応でコイツ駄目だなという雰囲気をビンビンにキャッチしたら悲しくなってその日でそのバンドを辞めた。自分の至らなさや惨めさで気持ちがいっぱいになり23にもなってマジ泣きしながら町田のスタジオを去りアパートに帰った。蒸し暑い日だった。
それでも一、二ヶ月も経てばまたバンドをやりたくなった。音楽の方向性の違いがそもそもの原因だったのだ、次のバンドでは本当に自分がやりたい方向性のバンドをやるのだとDrive Like Jehu、Fugazi、400Years等を記事に書き連ね再度メンバー募集をかけた(ちなみにこの頃にDaiei-Sprayらしきバンドのメンボがあったけど気のせいだろうか、確かベースを募集してて好きなバンドにFuel、Samiam、HDQ、God's Gutsとかが挙がってた気がする、応募してみたかったけど相当なガチ感だったしそもそもベースも持ってないし無理だった)
それでまたすぐにメンバーは集まって秋頃に新宿のペンタスタジオで練習をした気がする。このときは埼玉から通勤して昼休みにはユニオン新宿パンクマーケットを漁るというツワモノなメンバーがいてDrive Like JehuやSwing Kids、Hoover等の話ができて楽しかった。Ethel Meserveやkukim、shotmakerを教えてくれたのもこの人だった。でもここでも自分のギターが圧倒的に下手なために足を引っ張りまくりそのメンバーが作ったフレーズを弾いていたら「ギターなのに自分でフレーズを考えられないならバンドを組んだ意味がないですね」とチクッと言われ結局うまくいかなかった。自分で全パートを作った曲を再現するだけなら誰がメンバーでもいい訳だけどそれでは面白みに欠けるしバンドの醍醐味のケミストリー(ハァンパァーな夢のひとカケラがぁと後に歌う二人を見出したのがアサヤンでそこで光る君のカケラがぁーと歌ったのがアジカン、ところで全然面白くないんだけど何)を味わえないから各パートに任せるという考えならそうも言われるよなと今は思うけど当時は本当に辛辣に感じたし挫折した。スリーピースで自分の曲を作ることしか考えてこなかった自分には完全に技量不足でどこをどう弾けばいいのか全く分からなかったしかといってギターの練習を頑張る訳でもなく日々の生活に追われるだけのカス野郎だった。その後の自分がギター一本のバンドに拘っていたのはこれが原因である。
その後はさすがにバンドをやる気にはなれなかった。仕事もリーマンショックの煽りを受けていつまでも現場に出られずに社内での研修が続いた。常にブラインドを閉め切った暗い部屋に軟禁され研修としてC言語でオセロゲームのコードを組まされる日々に絶望していた。それができたらなんなのと思っていた。仕事をしたかった。研修制度は確かにしっかりしていたもののそれが自分には仇となって次々にプログラミング言語を叩き込まれ往復二時間強の通勤電車に揺られながらSE・PGの登竜門資格である基本情報技術者のテキストを読み続けた。優秀な同期は現場で経験を積んでいく中で自分は一体なにをしているのか、こんな生活の何が楽しいのかと限界を感じていた。そして季節外れのインフルエンザにかかりダウンしてしまったところでダメだこりゃと会社を辞める決意をした。ヤケクソになってインフルが治っても会社をサボって朝からジンロのドクターペッパー割を飲んで青春系の邦画をひたすら見たり一人カラオケでビートルズを歌ったり泊まりがけの治験を受けたりしていた。会社の人に迷惑をかけ続けるし人生で最も落ちた頃だった。定年退職した父親が心配して様子を見に泊まりに来たこともあった。とても不甲斐なかった。その年の冬には荷物をまとめて盛岡に帰った。それで短すぎる東京生活が終わった。
当時のことをあの時こうしていればもっとうまくいったのではと考えることが何度もあってこれを後悔や心残りというのだと思う。今思うとそもそもアパートを検討する時点でリーマンショックの影響から新人が入れるような現場が減って研修が長期化することを想定して通勤の負担を減らせるように研修所の近場にアパートを借りていればまだよかったのかもしれない。一人暮らしもしたことがないのだから夢の都会に浮かれていないで地に足を着けてからバンドを始めればよかった。少し考えれば分かりそうなものなのに。It seems so easy…とthe tigersがデモのタイトルに付けていたように簡単そうに見えていたしこの言葉をずっと反芻していた。でもそれも今だから思うことでチート状態で過去に戻ってやり直したくもなるような思い出ということで。これが本当のハンパな夢のひとカケラってやつよね(ケミストリーで締めるスタイル)
ということがあった。また長くなったし半分バンド関係ないしブログ書きたくてバンドやってる感すら漂うので終わる。ギターを弾きたかったけど寝る時間なので寝る。好きにするがいい。
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