楽天unlimitによってネット環境が快適なものに戻った。パートナー回線のauだけど速くて最高。でも5GB使い切るのが勿体なくてwifi切ってる。そして休みすぎて頭がいつも以上に回らないのでwimaxが遅かったときに書いた自分語りを投下して眠りたい。金曜の定時まで眠り続けたい。
Die Communications / Pastwalkerドラムのデマンドさんの高校〜大学でのバンド生活を振り返る話が面白くて楽しみに読んでいる。同年代らしく共感することも多い。the tigersやthe lionsと同じサークルだった話とかfixing a holeからのリリースの話が興味深かった。関西以西のメロディックの盛り上がり具合に羨望の眼差し。ちなみに羨望を英語でいうとenvyらしい。妬みじゃないんだ。blind justiceだなこりゃ。意味はない。
特に近況もないけど時間だけはあるので自分も過去のバンドを懐古したい。2006年秋から2008年夏までに遡る。大学の軽音サークルに入らずメンボ掲示板を使って初めて組んだバンドを「俺、envyみたいなバンドやりたいから…」と言い解散したあとにまたもメンボ掲示板で人をむりくり集めてgenomeoutというスリーピースバンドを結成した。最初はgenome inというバンド名を提案したがアウトした方が格好いいとメンバーに言われて変えた。バスセンター前のマックでそういう話をした記憶がある。スタジオはまだレッドホットも花咲もなくてジャイブは敷居が高かったので料金が一番安い東山堂スタジオを好んで利用していた。そこまでハマってもいないのに雑貨屋TIPI(懐)で買ったDischargeやThe ClashのTシャツを着てイキりながらギターを背負ってチャリで45分かけて肴町アーケード内に通っていた。
スーパーのレジ打ちで得たバイト代をamazonやHMVの輸入盤まとめ買いにぶっ込んだりmixiで知り合ったマイミクと激情ハードコアの音源を交換し始めてレア音源を手に入れられたことで人生が狂ってきた。Nine Days Wonderの1stやゼアイズ、キウイロール、カウパァズ(今頃になってこの表記が好きになってきた)、200mph、Bonescratchなどを聴きまくっては暗い曲を作り続けた。しかしいくら曲を作ってもenvyみたいなバンドにはなれなかった。
どうにか曲が揃ってきたところで青木楽器スタジオでボロボロな演奏を一発録りしてmyspaceにアップしてライブをするうちに多くの人と知り合えた。ご多分に漏れずホームページは魔法のiらんどだった。SHOT DAWN DANNY(ニスタのメンバー二人がやっていたTHE DAWNSの改名前のバンド)と仲良くなり頻繁にライブを見に行ったり対バンもした。一人で行ってもアベニスタが話しかけてくれ色々と好きなバンドの話やライブの感想を話し合ったものだった。今やこのブログに頻出のセトニスタとは話してみたくてもなかなか距離を縮められないでいたけど今思えば歳相応な感じだった。でもマーシャルのアンプの裏側の匂いを嗅ぐのが好きという話をされて生粋のギタリストなんだねぇ…とテンションが上がったことは覚えている。
話を戻してバンドはドラムの脱退や失踪に見舞われながら知人にヘルプを頼んだりして2、3回ほどライブをしていった。決して順調とは言えない活動だったけど少しずつ仲間が増えてバンド活動が楽しくなってきたところでメロディックパンクバンドのアンダーリング企画に出させてもらえることになった。一人でビンビンにみなぎっていたらベースからライブ直前になって「学校の試験があるからライブには出れない…」という連絡があった。実際は金やモチベーションの問題もあったと思う。ここまで頑張って続けてきたんだしせめてこのライブは出れないかと説得するも常に革ジャンにスタッズベルトを身に着けていた彼奴(きゃつ)の意思は鋲より固くヘルプを見つけることもできず泣く泣く出演をキャンセルさせてもらいバンドはそのまま解散した。折角誘ってもらったライブだったのにこんな終わり方なんてという思いが強くショック過ぎたのかこの企画に関する記憶がすっかり抜け落ちていた。当時の日記を読み返したらライブ音源を付けたジンを配ったりDaiei-Sprayギターのシバタさん率いるスコットベジタブルズやスリーピース編成のアンダーリングが格好良かったと書いていた。
あとは余談で解散後ほどなくして就活が待ち構えていた。盛岡では営業の求人しか見つからず自分にはリームーと決め付け、それならいっそ憧れの地である東京で就職すればいいのでは、という考えが浮かんできた。東京なら激情エモが好きな人とバンドをできそうだしいつでもユニオンにもジャニスにも行けるし一人暮らしもできるし若いうちにしかできないことなんじゃないか、という安直な理由で上京を決めた。バンドをやる前はなんのやる気もないヒトにいくらかの希望ができたことはよかったものの今思うと地元でどうにか就職するのが身の丈に合った選択だった。でもその時はそんなことは分からなかった。
それと同時期に文系こそSEになるべきという記事をなにかで読んで俺が進むべき道はこれだ…と真に受けてしまい進路を決めてとにかく未経験者にも優しそうで研修制度が手厚そうな会社にエントリーし埼玉に単身赴任していた父のアパートを拠点に二泊三日で面接をいくつか受けた。幸いリーマンショック前でIT業界は人手を集めまくっていたところでどうにか内定をもらえた。就活が遂に終わった喜びと夜行バスで来たのに2社から往復の新幹線代をもらえて差額で何の音源を買おうかしらということしか頭になかった。ハイパーイナフレコーズで通販した。
春になり東京に出た。といっても蒲田だったのでほぼ神奈川だった。ここで2つバンドを組んだ。どちらもすぐ解散した苦い思い出しかないけど長々と書きすぎていい加減しんどいので後日書くことにして明日からまた始まる労働に備えて寝んとす。メントス。
Die Communications / Pastwalkerドラムのデマンドさんの高校〜大学でのバンド生活を振り返る話が面白くて楽しみに読んでいる。同年代らしく共感することも多い。the tigersやthe lionsと同じサークルだった話とかfixing a holeからのリリースの話が興味深かった。関西以西のメロディックの盛り上がり具合に羨望の眼差し。ちなみに羨望を英語でいうとenvyらしい。妬みじゃないんだ。blind justiceだなこりゃ。意味はない。
特に近況もないけど時間だけはあるので自分も過去のバンドを懐古したい。2006年秋から2008年夏までに遡る。大学の軽音サークルに入らずメンボ掲示板を使って初めて組んだバンドを「俺、envyみたいなバンドやりたいから…」と言い解散したあとにまたもメンボ掲示板で人をむりくり集めてgenomeoutというスリーピースバンドを結成した。最初はgenome inというバンド名を提案したがアウトした方が格好いいとメンバーに言われて変えた。バスセンター前のマックでそういう話をした記憶がある。スタジオはまだレッドホットも花咲もなくてジャイブは敷居が高かったので料金が一番安い東山堂スタジオを好んで利用していた。そこまでハマってもいないのに雑貨屋TIPI(懐)で買ったDischargeやThe ClashのTシャツを着てイキりながらギターを背負ってチャリで45分かけて肴町アーケード内に通っていた。
スーパーのレジ打ちで得たバイト代をamazonやHMVの輸入盤まとめ買いにぶっ込んだりmixiで知り合ったマイミクと激情ハードコアの音源を交換し始めてレア音源を手に入れられたことで人生が狂ってきた。Nine Days Wonderの1stやゼアイズ、キウイロール、カウパァズ(今頃になってこの表記が好きになってきた)、200mph、Bonescratchなどを聴きまくっては暗い曲を作り続けた。しかしいくら曲を作ってもenvyみたいなバンドにはなれなかった。
どうにか曲が揃ってきたところで青木楽器スタジオでボロボロな演奏を一発録りしてmyspaceにアップしてライブをするうちに多くの人と知り合えた。ご多分に漏れずホームページは魔法のiらんどだった。SHOT DAWN DANNY(ニスタのメンバー二人がやっていたTHE DAWNSの改名前のバンド)と仲良くなり頻繁にライブを見に行ったり対バンもした。一人で行ってもアベニスタが話しかけてくれ色々と好きなバンドの話やライブの感想を話し合ったものだった。今やこのブログに頻出のセトニスタとは話してみたくてもなかなか距離を縮められないでいたけど今思えば歳相応な感じだった。でもマーシャルのアンプの裏側の匂いを嗅ぐのが好きという話をされて生粋のギタリストなんだねぇ…とテンションが上がったことは覚えている。
話を戻してバンドはドラムの脱退や失踪に見舞われながら知人にヘルプを頼んだりして2、3回ほどライブをしていった。決して順調とは言えない活動だったけど少しずつ仲間が増えてバンド活動が楽しくなってきたところでメロディックパンクバンドのアンダーリング企画に出させてもらえることになった。一人でビンビンにみなぎっていたらベースからライブ直前になって「学校の試験があるからライブには出れない…」という連絡があった。実際は金やモチベーションの問題もあったと思う。ここまで頑張って続けてきたんだしせめてこのライブは出れないかと説得するも常に革ジャンにスタッズベルトを身に着けていた彼奴(きゃつ)の意思は鋲より固くヘルプを見つけることもできず泣く泣く出演をキャンセルさせてもらいバンドはそのまま解散した。折角誘ってもらったライブだったのにこんな終わり方なんてという思いが強くショック過ぎたのかこの企画に関する記憶がすっかり抜け落ちていた。当時の日記を読み返したらライブ音源を付けたジンを配ったりDaiei-Sprayギターのシバタさん率いるスコットベジタブルズやスリーピース編成のアンダーリングが格好良かったと書いていた。
あとは余談で解散後ほどなくして就活が待ち構えていた。盛岡では営業の求人しか見つからず自分にはリームーと決め付け、それならいっそ憧れの地である東京で就職すればいいのでは、という考えが浮かんできた。東京なら激情エモが好きな人とバンドをできそうだしいつでもユニオンにもジャニスにも行けるし一人暮らしもできるし若いうちにしかできないことなんじゃないか、という安直な理由で上京を決めた。バンドをやる前はなんのやる気もないヒトにいくらかの希望ができたことはよかったものの今思うと地元でどうにか就職するのが身の丈に合った選択だった。でもその時はそんなことは分からなかった。
それと同時期に文系こそSEになるべきという記事をなにかで読んで俺が進むべき道はこれだ…と真に受けてしまい進路を決めてとにかく未経験者にも優しそうで研修制度が手厚そうな会社にエントリーし埼玉に単身赴任していた父のアパートを拠点に二泊三日で面接をいくつか受けた。幸いリーマンショック前でIT業界は人手を集めまくっていたところでどうにか内定をもらえた。就活が遂に終わった喜びと夜行バスで来たのに2社から往復の新幹線代をもらえて差額で何の音源を買おうかしらということしか頭になかった。ハイパーイナフレコーズで通販した。
春になり東京に出た。といっても蒲田だったのでほぼ神奈川だった。ここで2つバンドを組んだ。どちらもすぐ解散した苦い思い出しかないけど長々と書きすぎていい加減しんどいので後日書くことにして明日からまた始まる労働に備えて寝んとす。メントス。
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